桜島、避難の状況
噴火の前兆となる現象が頻発し始めた1月10日夜から住民の間で不安が広がり、地元の行政関係者が鹿児島測候所(現・鹿児
島地方気象台)に問い合わせたところ、地震については震源が吉野付近(鹿児島市北部)であり白煙については単なる雲であ
るとし、桜島には異変がなく避難の必要はないとの回答であった。しかしながら1月11日になると住民の中に避難を始める者
が出始めた。桜島東部の黒神、瀬戸、脇では地域の青年会が中心となり女性、子供、老人を優先に牛根村、垂水村(現垂水市
)方面への避難が進められた。また、桜島北部の西道、松浦においても青年会が中心となり鹿児島湾北部の重富村(現姶良町
)、加治木町、福山村(現霧島市)方面への避難が進められた。一方、鹿児島市街地に近い桜島西部の横山周辺は測候所の見
解を信頼する者が多かったため避難が遅れ、1月12日午前の噴火開始直後から海岸部各所に避難しようとする住民が殺到し大
混乱となった。しかし、西桜島村の死者は3名のみであった。
桜島東側の瀬戸海峡は海面に浮かんだ軽石の層が厚さ1m以上にもなり、船による避難は困難を極めた。対岸の鹿児島市は鹿児
島湾内に停泊していた船舶を緊急に徴用して救護船としたが間に合わず、東桜島村では混乱によって海岸から転落する者や泳
いで対岸に渡ろうとして凍死したり溺死したりする者が相次いだ。この教訓から、鹿児島市立東桜島小学校にある桜島爆発記
念碑には「住民は理論を信頼せず異変を見つけたら未然に避難の用意をすることが肝要である」との記述が残されており、「
科学不信の碑」とも呼ばれている。
桜島対岸の鹿児島市内においては1月12日夕刻の地震発生以降、津波襲来や毒ガス発生の流言が広がり、市外へ避難しようと
する人々が続出した。鹿児島駅や武駅(現鹿児島中央駅)には避難を急ぐ人々が集まり騒然となった。市内の混乱は1月17日
頃まで続いた。
噴火の影響
噴火によって降り積もった火山灰は火砕流に襲われた赤生原付近や風下にあたった黒神と大隅半島の一部で最大1.5m以上、桜
島の他の地域でも30cm以上の深さに達した。桜島島内の多くの農地が被害を受け、ミカン、ビワ、モモ、麦、大根などの農作
物はほぼ全滅した。耕作が困難となった農地も多く、噴火以前は2万人以上であった島民の約3分の2が島外へ移住した。移住
先は種子島、大隅半島、宮崎県を中心とした日本各地のほか、朝鮮半島に移住する者もあった。
災害復興のために桜島と鹿児島市街地を結ぶ定期航路を望む声が上がり、1934年(昭和9年)11月19日に当時の西桜島村が村
営定期船の運航を開始した。その後の桜島フェリーである。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
桜島は2007年、日本の地質百選に選定されたそうです。
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